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休館日:毎週月曜日

高碕記念館について

Takasaki
Memorial Hall

INTRODUCTION高碕記念館について

宝塚市景観重要建造物指定
ひょうごの近代住宅100選選定
登録有形文化財登録

高碕記念館

「高碕記念館」は、1923年(大正12年1月)に医学博士 諏訪瑩一氏の住宅としてウィリアム・M・ヴォーリズの設計により建築され、1929年(昭和4年)より当法人の設立者である高碕達之助の住居として使用されていました。当時、自然や生き物を愛した高碕達之助は、ワニやニシキヘビなどの爬虫類から小鳥、ダチョウにいたるまで、多くの生き物を飼育していました。また、ひときわ大きな椰子の木は当記念館のシンボルとなっております。

ヴォーリズ建築の代表的なスタイルの一つ

この建物には、ヴォーリズ建築の代表的なスタイルの一つである、木造2階建て腰折れ屋根のコロニアルスタイルの特色がよく表現されています。
1938年 (昭和13年)に現在の玄関部分が増築された他、幾度も改築されましたが、老朽化が著しくなったので、1989年(平成元年)に原型のヴォーリズ建築の保存を主目的とした全面的な改修工事が実施され、現在に至っています。

設計者 ウィリアム・M・ヴォーリズ
建設時期 1923年(大正12年)
敷地面積 1135.84m²
延床面積 408.63m²

「高碕記念館」は、戦後の一時期進駐軍の接収を受ける等の歴史的な側面を有していますが、立地する雲雀丘・花屋敷一帯も、阪神間有数の歴史ある住宅地として古くから知られています。大正文化を象徴する様な洋館が階段状に建築され、現在も景観形成建築物として市の指定を受けた住宅が数多くありますが、数件あったヴォーリズ建築は、現在は当法人が維持管理する、この高碕記念館だけになっています。

VORIES ARCHITECTUREヴォーリズ建築とは

ヴォーリズ建築

現存する建物の多くが登録有形文化財等に指定される等、建築家ウィリアム・M・ヴォーリズが設計した建築物には、現在も根強いファンが多く存在します。ヴォーリズは、日本各地で西洋建築の設計を数多く手がけ、戦前だけでも1,500件を数えると言われており、日本の西洋建築に大きな影響を与えました。

  • 駒井家住宅

    駒井家住宅

  • 五葉館

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  • 同志社大学アーモスト館

    同志社大学アーモスト館

  • 京都バプテスト教会

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  • 日本基督教団大阪教会

    日本基督教団大阪教会

  • 関西学院大学時計塔

    関西学院大学時計塔

よく知られたものには、大阪の旧大同生命ビル、旧大丸心斎橋店、そして関西学院大学、神戸女学院大学、同志社大学アーモスト記念館などミッション系スクールやキリスト教会の建築が数多くあります。

ウィリアム・M・ヴォーリズ William Merrell Vories

ウィリアム・M・ヴォーリズ

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880〜1964)は、米国に生まれ、明治38年に英語教師として来日、その後、メンソレータム(現メンターム)で知られる近江ミッション(近江兄弟社)を設立。そして建築事務所を営むなど、日本に於いて様々な文化事業や社会事業に携わり、大東亜戦争中も自らの意志で日本に残留した上、一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と改名し、生涯を日本で過ごした人物です。

ABOUT TAKASAKI, Tatsunosuke高碕達之助について

高碕達之助について
高碕達之助

現在の大阪府高槻市に生まれ、水産講習所(現東京海洋大学)に進学。卒業後、缶詰製造会社に就職し、メキシコの太平洋沿岸の水産調査協力スタッフとして派遣される。帰国後、東洋製罐株式会社を設立し、創立20周年を迎えた1938年に缶詰技術者の養成と缶詰技術の研究を目的に東洋罐詰専修学校(現東洋食品工業短期大学)を創設した。

高碕達之助

その後、満州重工業開発総裁として1945年8月8日のソ連対日宣戦布告の事態に遭遇、終戦後も満州に残り日本人会会長として帰国できないでいる同胞200万人の帰還交渉を、ソ連、中国共産党や国民党政府と行った。

高碕達之助

日本への帰還後、1952年当時の内閣総理大臣・吉田茂に請われ「電源開発」の初代総裁に就任。天竜川の佐久間ダム、只見川の田子倉ダム、庄川の御母衣ダムの事業計画に携わった。

高碕達之助

1954年、第一次鳩山内閣経済審議庁(現内閣府)長官。翌年、第二次鳩山内閣経済企画庁長官(現内閣府)を歴任。同年に開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)には日本政府代表として出席し、ネルー首相(インド)やナセル大統領(エジプト)、周恩来首相(中国)などと親交を深めた。

1958年、岸内閣では通商産業大臣・経済企画庁長官・科学技術省長官を兼任。1962年に日中国交正常化の前に中華人民共和国を訪問し、日中総合貿易(LT貿易)に関する覚書に調印した。1964年2月24日逝去。その死去に際して、周恩来首相は「このような人物は二度と現われまい」という最大級の賛辞を哀悼の言葉として贈ったと言われている。

1885年
(明治18年)
現在の大阪府高槻市に生誕
1906年
(明治39年)
農商務省水産講習所(現東京海洋大学)を卒業
1917年
(大正 6年)
東洋製罐株式会社を現在の大阪市福島区に設立
1938年
(昭和13年)
東洋罐詰専修学校(現東洋食品工業短期大学)を兵庫県川西市に設立
1940年
(昭和15年)
満州重工業開発株式会社理事に就任
1942年
(昭和17年)
満州重工業開発株式会社総裁に就任
1945年
(昭和20年)
満州日本人会会長
1947年
(昭和22年)
日本に帰国
1952年
(昭和27年)
電源開発株式会社(J-POWER)総裁就任
1954年
(昭和29年)
第一次鳩山内閣 経済審議庁長官
1955年
(昭和30年)
衆議院議員初当選。経済企画庁長官
1958年
(昭和33年)
第二次岸内閣 通商産業大臣就任
第2回日ソ漁業交渉政府代表として訪ソ
1959年
(昭和34年)
科学技術庁長官を兼任
1962年
(昭和37年)
第6回日ソ漁業交渉政府代表として訪ソ
周恩来首相の招きで訪中
紺綬褒章受章
財団法人 東洋食品研究所を設立
1963年
(昭和38年)
衆議院議員当選(4回目)
1964年
(昭和39年)
2月24日死去(79歳)
正三位勲一等旭日大綬章